<映画に登場するパンクバンド「ルーディ」のメンバー、ブライアン・ヤングによる記事。Trakmarx.comから抜粋、要約。>

現存するほとんどのパンクロック・ドキュメンタリーは、長ったらしくてオチが見え見えの暴露モノだったり、大儲けするためのやっつけ仕事だったりする。だけど自分のナンバーワン・パンク映画はこの「シェルショック・ロック」。今でもその輝きを失う事なく、むしろ年月とともに輝きを増す。1978〜79年に北アイルランドで急成長したパンクシーンの断片を捉えた、ジョン・T・デイヴィスによる映画である。

私がジョン・T・デイヴィスをはじめて知ったのは1977年、彼がフリーランスの写真家として、『ベルファスト・テレグラフ』誌に掲載する地元のパンクバンドの写真を撮るために、まぬけな新聞記者と一緒にやってきた時のことだった。我々のバンド「ルーディ」はベルファストで最初のパンクロックバンドで、当時は絶大な人気を誇っていた。練習場にしていたアルバート・ブリッジから少し外れたところにあるホールで、我々はその記者の‘取材’(答えるそばから無視するのが取材かどうか分からないが)からとにかく早く逃れたいと思っていた。しかし痩せこけたその写真家としゃべっているうちに、60年代ガレージ・パンクに関する彼の知識に皆すっかり感心してしまった。最初は彼の事をただのヒッピーくずれだと思っていたが、『96粒の涙』の天才ぶりを賞賛する彼をたちまち受け入れてしまった。その彼が、他でもないジョン・T・デイヴィスだったわけだ。

数ヶ月後、アルスター・パンクは徐々にその存在を認められるようになっていく。ジョンはこの機会を逃してはならぬと、周囲で起こっている出来事をフィルムに収めるべく、地元のアート・カウンシルから幾ばくかの資金を獲得して撮影を始めた。1978年晩夏から1979年1月末まで、彼はまさしく大切な時期に、最も重要な場所にいたのである。

もちろん仲間たちも最初は訝しがっていたが、ジョンは衝撃を狙った“やっつけ“のドキュメンタリーを作っている訳でもなく、高圧的な政治批判をする訳でもないと言う事が少しずつ分かってきた。物わかりの悪い輩とは違い、彼は好意と尊敬を持って、我々をいたずらなパンクロッカーとして扱ってくれたし、我々は自分たちの不良ぶりを彼のフィルムに収めて欲しいと思っていた。その時ジョンが我々に受け入れられたのは、彼が北アイルランドで最初の麻薬中毒者だという噂が手伝ったかもしれない!

低予算だったにもかかわらず、『シェルショック・ロック』は想像性豊かな作品で、空中撮影ひとつ取っても息を飲んでしまう。ジョンがその意欲的かつ冗長さのないあか抜けた手法を駆使する事で、多くの映画作家から愛されているのもまた印象的だった。もちろん兵士や装甲車の映像もそこにはあるが、ジョンはそこに自らの見解を持たずに、ただシンプルに我慢強くそして誠実に、日常を捉えていった。

この作品は映像だけではなくその音源も良い。「スティッフ・リトル・フィンガーズ」や「アンダーストーンズ」がスターダムにのし上がる直前の生々しい映像は、レコード会社の営業マンによってダメにされる前の彼らの姿だ。オレンジ・ホールの練習に向かうバスの中や、悪名高いグレンマチャンのライブで撮影された映像には、地元で根強く活躍していた「ルーディ」の姿が永遠に閉じ込められている。ちなみに我々の良きライバル「アウトキャスターズ」が作品中で録音しているベルファストのウィザード・スタジオは、多くの素晴らしいバンドや曲が、デヴィ・シャノンの救いようなくひどい技術のおかげで台無しにされた。

(中略)

そう、これらのバンドは荒くて発展途上だったが、その技術やプロ意識の欠如以上の何か?勇気とか、熱意とか、向こう見ずな十代の奔放さ?があった。彼らは、わざとシニカルなポーズをとって「パンクバンド」と名乗る、そこら中にいた輩とは痛烈に対照的だった。

しかし『シェルショック・ロック』の素晴らしさは、ただ単にいい音楽を紹介しているだけでなく、アルスター・パンクを捉えている点だ。そこでは、あたかも熱狂的なギャンブラーのような我々が、自分たちにとってパンクとは何か、そしてパンクがいかに自分たちの人生に影響を与え、変えて行き、席巻していったかを探っているシーンを捉えている。確かにどこに行ってもパンクは商業的駆け引き以上のモノを証明してきたかもしれない、しかしここには、階級や宗教によって区分された人々が、地元の誇りと自覚を形成し、仲間たちを刺激し、自分を見つめ、街に出て、自分たちがやりたいことに取り組む姿を描いている。『シェルショック・ロック』は他のパンク映画と違って、清々しいほどの前向きなメッセージを持っているのだ。

『シェルショック・ロック』は1979年のコルク映画祭で鮮烈なデビューを飾った。それ以来、「ルーディ」は幾度となくこの映画と一緒にアイルランドを周り、演奏を続けた。悲しいかな、この映画はそれに見合うほどの広がりを見せなかったにもかかわらず、昨今はパンク映画の懐古上映の度に喝采を浴びてきた。しかし数年前の火事でフィルムを焼失してしまった。

是非この映画を見て、見失ったものを思い出してほしい。

ブライアン・ヤング

2004年8月

(ホームページより抜粋、翻訳:馬渕愛)

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